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歴史 水と共に文化を流さんーわれらの希いー

「水と共に文化を流さん」 愛知用水を作った 1 人、知多半島の農家・久野庄太郎さんの言葉です。水不足に苦しむ農村に水を引くことができれば、多くの人々が文化的な生活を営むことができる。そんな願いが込められています。遥か 100km 以上先の木曽川から水を引こうと、久野庄太郎さんと高校教師の浜島辰雄さんは人生を賭け、用水建設に挑みました。浜島さんが実地測量と地図の等高線を頼りに幹線水路を描いた幅 1.8m、長さ 3.6m の緻密な地形図。それを担いで農村の人々を説いて回り、時に浪曲師を呼び荒地の開墾に尽力した明治用水の先駆者・都築弥厚の苦心談を口演し農家を奮い立たせ、遂には当時の首相吉田茂に直接陳情し協力を約束してもらいました。農民と教師から始まったこの構想は国の総合開発事業として進められることとなります。

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 一方で、愛知用水の水瓶となるダムの建設に対し水源地では反対運動が起こりました。「・・・とにかく絶対反対である。祖先以来永い間定着して来た土地と家、父祖の墓地を湖底に沈め、故郷を追われようとしているのである。ふるさとのない人生がいかに寂寞たるものであるか。山高く、水清らかなこの土地は、我々の愛する故郷である。故郷を愛することは人間本来の姿である。ダム建設に反対するのは最早理論ではない。我々の感情である。心の底から突き上げてくる情の世界である。・・・」

(王滝村『村報・公民館報 王滝 復刻版』「王滝 第 44 号(1954 年 7 月 15 日)」1980 年)

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 しかし反対の陳情を続けるも、国策となった愛知用水事業を止めることは出来ず、補償と引き換えに長野県王滝村の 4 集落と三岳村(現木曽町)の 2 集落の土地はダム建設のために水没しました。両村の水没犠牲者は 1003 人、うち 700 人余りが村外移住をしています。 構想から 13 年後の 1961 年、多くの苦難を乗り越え愛知用水と牧尾ダムは完成します。着工からわずか 4 年という早さでこの大規模な事業は完工しました。急ぐ工事は非情にも、多くの犠牲者を出し 56 名が亡くなりました。殉職者の中にはダムに関する知識や技術を惜しみなく日本人技術者に伝えたアメリカ人技術者もいます。

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 61 年後の現在も水は長野県の山奥から知多半島の先端の島々までの流域を潤し、農業・工業・生活用水として沢山の人の生活を支えています。

 ダムは山々に囲まれ静かに水を湛え、波ひとつない水面は心を落ち着かせてくれます。水は暗渠を通り見えたり見えなかったり、障害物がある度にグニャっと曲がり紆余曲折、まるで人の血管のようにゆっくりと流れています。多くの物語を持つこの水で繋がる流域は、現代の私たちにとってどんな存在なのでしょう?またどんな物語をこれから作ることができるのでしょうか? 私たちは常に問われています。

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